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充実した人生に唯一必要なもの【森博嗣】連載「日常のフローチャート」第35回[最終回]

森博嗣 新連載エッセィ「日常のフローチャート Daily Flowchart」連載第35回

 

【毎日はそれなりに楽しい?】

 

 心配事があったり、将来に向けて不安があったり、といった話は頻繁に耳にするけれど、これは不確定な未来を悲観的に観測しているものだ。悲観的観測は人間の本能的なものであり、動物よりも優れている能力といえる。その不安が現実となる確率がどれほどかで、人それぞれ具体的には大きく異なるが、しかし、今日を生きることができないほどには困っていない。自殺を具体的に考えるほどでもない。とりあえず、現代社会には、困窮している個人を助けるための制度が数々設けられている。たとえば、良くないことだが「借金」というシステムがあって、これで一時的に救われることが多い。もちろん、金では解決できない問題も多々あって、多くは愛情や憎悪のような感情的な対人関係に起因しているだろう。

 たしかに、自殺をしたり、犯罪に手を染めたりといった人が、ある程度の割合存在する。ただ、ほとんどの人たちは、毎日を生きて、明日のための準備をする。まだ死にたくないと考えていて、危険を避ける行動を選択する。つまり、心配し不安を抱えていても、そんな毎日を続けたいと思っている。未来にはなにか良いことがあるのではないか、という希望的な観測もするだろう。そんな淡い期待のために身銭を切る(たとえば、宝くじを買う)。今は良くないけれど、良いことがいずれやってくるだろう、と妄想する。今は良くないけれど、最悪ではない。自分よりも困っている人たちがいるはずだ、とも考える。

 長寿を願うのは、最悪ではない日々を長く続ければ、なにか今より良い状況が訪れるかもしれない、長いほどその確率は高くなるはずだ、といった観測による。ぼんやりと、そんなイメージというか、言葉にならない感覚を持っているはず。言葉にならないのは、言葉にしたことがないからで、そんな将来のことを他者に話すなんて恥ずかしい、といった気持ちが言語化を抑制している。

 僕は、そういう日常というのが、ある種、幸せの一例なのではないか、と考えている。否、考えているというよりは、評価している、といった方が近い。もっといえば、心配や不安というのは、幸せを基準とした観測なのだ。現在が明らかな不幸ならば、さきの心配をする余裕さえなくなる。将来に対する不安は、むしろ小さく感じられるだろう。

 人間の感性というのは、現在の絶対値ではなく、現在の変化率に支配されている。これは、たとえるなら、速度は体感できないが、加速度は感じることができるのと似ている。

 逆にいえば、現在の状況がプラスかマイナスか、といった尺度は存在しない。幸福か不幸かは測れないのだ。ただ、どちらへ近づいているか、その変化だけが感知される。

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 〈無駄だ、贅沢だ、というのなら、生きていること自体が無駄で贅沢な状況といえるだろう。人間は何故生きているのか、と問われれば、僕は「生きるのが趣味です」と答えるのが適切だと考えている。趣味は無駄で贅沢なものなのだから、辻褄が合っている。〉(第5回「五月が一番夏らしい季節」より)。

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森博嗣

もり ひろし

1957年愛知県生まれ。工学博士。某国立大学工学部建築学科で研究をするかたわら、1996年に『すべてがFになる』で第1回「メフィスト賞」を受賞し、衝撃の作家デビュー。怜悧で知的な作風で人気を博する。「S&Mシリーズ」「Vシリーズ」(ともに講談社文庫)などのミステリィのほか、「Wシリーズ」(講談社タイガ)や『スカイ・クロラ』(中公文庫)などのSF作品、また『The cream of the notes』シリーズ(講談社文庫)、『小説家という職業』(集英社新書)、『科学的とはどういう意味か』(新潮新書)、『孤独の価値』(幻冬舎新書)、『道なき未知』(小社刊)などのエッセィを多数刊行している。

 

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